ブックタイトルshimotsukebook

ページ
9/16

このページは shimotsukebook の電子ブックに掲載されている9ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

shimotsukebook

戦時下になり紙類統制のために休刊のお知らせ(「下野教育」五〇〇号より)した。これを推進し日本教育協会が発足本連合教育会となる(一九四九)、後に日して昭和二十四年仕の団体が必要」と者本来の研さん、奉能の充実という教育に、教育の文化、職する教員組合とは別育翼賛の実をあげる」と改められた。だが、「経済的条件の改善を目的とは社団法人になり、会の目的も「教山、滋賀、徳島の六県だけ。していくのだが、その直前、教育会育会に戻した本県と長野、茨城、富六年(一八四一)、太平洋戦争へ突入戦直後、いち早く自動的に栃木県教びつきを一段と強めながら、昭和十も次々に解散。生き残ったのは、終時代の流れは「国家と教育」の結で解散に追い込まれ、地方の教育会に乗り出してきたのである。教職員組合(日教組)の強烈な圧力間任せだった教育に対して国が前面うとしたが、終戦直後に出来た日本際的地位も一気に向上。ほとんど民会はGHQの助言を受けて再建しよった。日清、日露戦争に勝利し、国でなかった。全国組織の大日本教育会は次第に半官半民へと移行してい本中が大混乱の渦に。教育会も例外会長には郡長が選ばれるなど、教育この時期こそ戦争から敗戦へ、日の名が消え、総裁には知事、各支部の休刊を余儀なくされた。県庁内に移った。名称から「私立」に変身して再登場するまで十二年間県学務部長ら県官が就任、事務所も(一九五三)、復刊第一号として雑誌型は大きな転機を迎える。会長などにあった。「下野教育」は昭和二十八年明治四十三年(一九一〇)、教育会誌」にあふれていた。會戦」時下に入り紙類の統制のためでい」などと、熱い思いが「教育会雑本號限リ休刊致シマス栃木縣教育木の教育が各府県に負けてはならな「都合ニ依リ本誌『下野教育』ハ欧州文明の各国を乗り越えよう」「栃った。は殊の外強く、「教育者たちの努力で五〇〇号に囲みの「お知らせ」が載の進歩の源」と教育者たちの使命感同年十一月十五日発行の「下野教育」最新号の「下野教育」を開く。「改った。教育会創刊七十周年の記念の年であきたという。「下野教育」復刊は連合の連合体として地道な活動を続けて陥った時期もあったが、地区教育会害工作が続き、栃木でも会長不在にその後も教育会へのさまざまな妨った県の有志たちの力だった。たのが栃木県をはじめとする生き残最新の第743号(平成25年6月発行)影山榑三雄Fumio Kageyama昭和12(1937)年11月、栃木市生まれ。栃木県立宇都宮高校、上智大学新聞学科卒業。昭和36(1961)年東京新聞社入社。東京新聞(中日新聞東京本社)記者、社会部長、特別報道部長、編集局次長、紙面審査室長。平成15(2004)年退職、故郷の宇都宮へ帰る。栃木県内を歩き、「桜守」、「水滔々」、「古道浪漫」、「樹に宿る」を東京新聞栃木版に長期連載。著書「樹に宿る」など。現在文筆業、栃木県「とちぎ未来大使」、など。改めて示している。い教訓を百三十年の「下野教育」は継続して伝えていく。地味で奥深生方が会員になっているのですから」。いきたいですね。今県内の九割の先大切にして、この姿勢を引き継いでんだのです。現場の先生たちの声を線を画してきたのが、この長寿を生連続でしたが、政治活動とは常に一新沼会長はこう話す。「紆余曲折のいきたいですね」。にどう生かすか、敏感に取り上げてや五輪など社会の大きな事象を教育記録していくのが重要です。大震災と言われています。毎回をしっかり歴史は『下野教育』を見れば分かる編集担当の手塚部長は「県の教育の生たちが現場の生の声を伝えている。園、小、中学校、高校などの会員先の立場から寄稿している。また幼稚学教授や各地の校長たちが教育現場挑戦」との特集が組まれ、宇都宮大革期の教育を考えるー栃木の教育の29